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埼玉県の南部、飯能あたりから広がっている山々は「奥武蔵」と呼ばれています。
先日4月24日に、飯能からバスで40分ほど行ったところにある名栗を基点とする「名栗U字連山」を走ってきました。

私がトレイルランニングをするのは2回目になります。
1回目は2月に伊豆が岳というこれも奥武蔵の中の山に行ったのですが、この時は山に雪が残っており初めてのトレランということで、その大変さに驚きました。
ちなみに、「ランニング」と言っていますが、登りの山道などは全て「歩き」です。とても走れたものではありません。
歩くとはいえ、それでもやはり山道を登っていく訳ですから、普段使わない筋肉を酷使するようで翌日からの筋肉痛はとても酷いものでした。

で、今回はどうだったのか?
2回目なので少しは体が慣れて前回よりは楽になるかと思っていましたが、全くそんなことはなかったです。
5日経ったこれを書いている時点でも筋肉痛に悩まされています。
(大分良くはなりましたが)

全行程で、距離としては約23km程度です。
最低標高がサワラビの湯バス停約250m程度。最高標高が日向沢ノ峰(ひなたざわのうら)の1,356m。累積標高差は1770m程。

サワラビの湯バス停(約250m)  → 金比羅神社跡 → 金比羅山 (659.6m) → 藤棚山 (920.2m) → 大ヨケノ頭 (771m) → 蕨山(1044m) → 有間山(橋小屋ノ頭) (1163m) → 有間山(タタラの頭) (1214m)  → 有間峠 → 日向沢ノ峰(1356m) → 長尾丸山 (958.4m) → 槙ノ尾山 (945m) → 棒ノ嶺(棒ノ折山) (969m)  → 権次入峠 → 岩茸石 → 白谷橋 → サワラビの湯バス停(約250m)

こんな行程です。

コースに入った辺り(標高300m程度)はもう新芽が芽吹いていました。




でも標高が上がるとまだ冬山のように、葉のない広葉樹が広がっていました。この写真の場所は標高1,100mと1,200mの間くらいです。まだまだ寒いですね。



剥がれた樹皮がパタパタパタと音を出しています。
周囲にはハイカーもランナーも誰もいません。
静かなだけにより一層、自然の出す音が大きく感じます。
なにかの言葉のよう。

山には富士山や早池峰 のようにカミサマが住んでいたり、安達太良山のように人を食べる鬼が出たりします。
こういう音を聴いていると、そういった「人知を超越した存在」がいた(いまもいるかもしれませんが)というのが良く分かります。
自然の中に入っていく。人間の密度が低い場所にいることで、相対的に人間の存在が小さくなりますから、そこには色々なものが(心理的にも)存在しうるのだと思います。

小走りに通り過ぎると突然気温が少し上がった場所がありました。
恐らく1度か2度の違いかと思いますが、空気が確かに変わりました。
試しに戻ってみると、やはり気温は下がり、また行くと気温が上がります。
わずか10m位で変化が確かにありました。
気流の通り道かなにかだと思います。あるいは「なにか」が通り過ぎたのかも知れません・・・。

このコースはだいたいが山の尾根を通ります。面白かったのは斜面の左側と右側で植生が異なることです。



この写真はコースの前半なので西に向かって進んでいる時のものです。
右が北になり、左が南になります。
ということは右が南斜面であり、左が北斜面になります。

次にコースの後半、東に向かって進んでいるときは、逆になりますから、右が南になり、左が左になり、右が北斜面であり、左が南斜面になります。
面白いことに今度は左右逆で右側が針葉樹になり、左側が広葉樹になります。

北斜面・・・つまり陽が当たりにくい斜面に針葉樹の杉が植わっているということになります。
杉はもちろん原生林ではなく、明治以降に植えられたものだと思われます。
これは恐らく意図的にそうなっているのでしょうね。杉はもう少し寒いところの木ですから。




このコースのもっとも標高の高いところでは、高圧電線の鉄塔がありました。
山奥に送電線があるのは珍しいことではないと思いますが、どうやってこの場所に鉄塔を建てたのか、私はしばらく考えてしまいました。
(この辺りの山道は人一人通れる程度ですから、車両の通行は不可能です)
資材はヘリコプターかなにかで運んだのかも知れません。

東電は原発の問題でかなり批判を受けています。確かに、原発は彼らの事業のうちの一部で責任がありますし、その安全性の確保に不作為がなかったとは言えないかも知れません。天下りしてきた幹部には官僚主義的で硬直的な臭いも感じなくはないです。
しかし、私はこの鉄塔を見て、こんな山奥にこれだけのものを建てて維持するという大きな仕事をしている電力会社というのはスゴイものだなぁ、と極めて単純ですが思いました。
例えばあれだけの地震がおきながら、計画停電もありましたが、東京23区ではだいたいの部分で電力を供給しつづけているというのは、インフラ起業としては評価されても良いのではないかと思います。
もちろん、だからといって原発の事故が見過ごされるわけではもちろんないですし、極めて不愉快な出来事です。
ただ、これだけのインフラストラクチャーは社会全体のものであると言える・・・であるなら、東電の起こした原発事故も我々全体が引き起こしたと考えられないか・・・。
そんな風に鉄塔を見ながら思いました。

話が(かなり)逸れました。

このコースの最高峰である、日向沢ノ峰。
この手前の登りは本当にきつかったです。
ここまで来るのにかなり登ってきましたから、大分足を使ってしまいました。
手で膝を押すようにして、一歩一歩登ります。

でも、ここを過ぎれば登りはほとんど終了で、一安心。

その後の尾根はとても趣のある静かな尾根でした。




自然の庭園とでもいったら良いのでしょうか。
まるで庭師がいて手入れをしているような、苔のむした岩に静かな午後の光が注ぐ・・。そんな風景に何度も出会いました。




棒ノ嶺は今日のピークの中でも最も眺めのよう場所でした。
関東平野を見渡せます。




後は、さわらびの湯まで下りていくだけなのですが、この区間は沢下り状態になり滑らないように注意するのが大変でした。
(実際、なんども滑りました。ケガしなくて良かった)

慎重に進んだので気を使いましたが、尾根を進むのとは違って、沢の空気というのも良いものです。沢の水を飲んだりして一休みしました。




と、ずいぶん帰ってくるまでに時間が掛かってしまいましたが、なんとか無事に下山することが出来ました。
上に書いたように、疲労が想像以上でした。まともに歩けない、階段の下りるときに手すりを掴んで一歩一歩ゆっくり下るような筋肉痛になりました。
恐らくまだ山を登り下りするのに必要な筋肉がないのでしょう。
あまり無理せず、あせらず、ゆっくり走りたいときに走るような、そんなトレイルランニングで良いと思っています。

また近いうちに自然の懐へ飛び込んできます。
トレイルランニングとはなにか?
主に山道や林道などの未舗装路を走ったり歩いたりするスポーツのことをいいます。
歴史自体浅く、日本よりも欧米で盛んですが、日本でもその競技人口が増えています。

スポーツとしての歴史は浅いかも知れません。
しかし、動物や人間にとって、未舗装路を走るという行為は本来とても自然なことのはずで、狩猟生活をしていたときは、恐らく幾晩も幾晩も山道を歩き続けたことがあったはずです。
それは、自然の中に分け入って生きるための糧を探さなければならないという、当時の生活のために必要なことでもありました。
現在では山道を歩く必然性は基本的にないはずですが、トレイルを走っていると、人間と自然との距離が近かった頃に思いをはせることができます。

トレイルランニングの第一人者、鏑木毅さんは、UTMB(ウルトラトレイル・ドゥ・モンブラン)という、恐らくトレイルランニングで最も有名なレースに出場したときに感じたことを、彼のホームページで書いています。


モンブランのレースで出会った人たちは、ごく自然な感じでトレイルを走っていたのが印象的でした。牧草地にのびやかに続く道、モンブランを見渡せる眺めの良い道、こんな道を進んでいるうちに、足は勝手に駆け出してしまい、そこには「トレイルランニングをしている」なんていう言葉はなく、走ることはごく自然な行為に思えます。「快適なトレイルを進む、気持ちよいから思わず走り出す、ちょっと疲れたのでまた歩く」そんな行為を別段、定義づける言葉はいらないと感じました。


私はこの文章がとても印象に残っています。

トレイルランニングという行為には、なにか説明するための特別言葉はいらないということでしょうか。
人間にとってこれはプリミティブな行為であり、自然と一体化するために自然の中に入っていく行為なのかもしれません。

2011/04/23  

Category: 雑記
先日、駅のホームであった出来事。マスクをした中年の女性がうつむき加減で立ち止まっていて、なんだろう?と思ったら軽く嘔吐をしていた。どうやら調子が悪そう。あらら、と思いティッシュでもどうかなと思いバックから取り出そうとしたら、他の女性二人くらいが先にティッシュやハンカチを差し出していました。

おー、速いですねー-。(先を越された)

この速さは、やはり震災の影響かなと、勝手に想像。
震災前だと、皆もう少し皆遠巻きに様子をうかがうんじゃないかという気がします。

皆、しんどいのは同じ。
ならば助け合おう・・・と。

私は自分を決して利他的な人間ではないと思ってます。
むしろ周りの人は利己的な人間だと思っているかも知れません。
人のために自己を犠牲にして生きるというのはちょっと違うと思います。

しかし、自分だけでなく周りも含めた「全体における最大の利益(幸福)」というの視点はとても大事だと思っています。
上の例だと、ティッシュを差し上げることに不利益はほとんどないのに、体調が悪い人にとってはそれを受け取ることでおおきな利益になります(きっと)。
自分がやって欲しいことは、相手に対してするべきだし、やって欲しくないことは相手に対してもやるべきではない。

・・・なんか当たり前のことを書いていますね。

でも、そんなことをこの出来事の後で考えてました。


震災の直後ですが、「今年は絆の年になる」ということを言っている人がいました。
なるほど。

周りにいる人でも
地域でも
国でも
世界でも

震災があったからこそ人との繋がりが重要だと認識できた。
だからこそ、ティッシュを差し出すスピードもアップしたかな・・・と。
そう思いました。

(かなり考えが飛躍していますが、そう思った)

2011/04/15  情報の信頼性

Category: 雑記
震災に関連して、デマや出所の不明な情報が沢山出てきました。

デマには、地震当日の千葉の化学工場爆発で有害物質が出るとか、漫画家が15億円を寄付するとかいったものから、地震自体が地震兵器によるものであるといったほとんど荒唐無稽と思われるようなものまで色々ありました。

Twitterなどで情報が拡散してしまうと、どこが情報の発信元か分からなくなりますが、Googleのリアルタイムという機能を使うと、その情報が初めてネットに書き込まれた所まで遡れることがあります。(必ず遡れるというわけではないようです)。

いくつか調べてみました。

デマを流すというと、とても悪い事をやる人というイメージがあります。
しかし、調べてみると「えっ、いったい誰が悪いの?」と言いたくなるような、特に誰を責めることが出来ないというケースがあって驚きます。

千葉の化学工場爆発の件の出元は、文面から察するに、恐らくまだ若いだろうと思われる千葉の女性でした。これはTwitterに出た時点までしか遡っていませんので、彼女は別のサイトを見て、この情報をTwitterに書き込んだのかも知れません。その後、しばらくして情報が拡散されていき、ガスタンクの火災を起こした会社からこの情報が否定されるまで、拡散のピークを迎えます。
この人のツイートを読む限り、いたって普通の女性という印象を受けます。少なくとも、特に何らかのバイアスを持って書き込むような人ではありません。恐らくどこか他のサイトで読んだ情報を単なる「善意で」書き込んだのではないでしょうか?また、拡散した人も同様です。単に、地震の被害を少なくしたいという思いから、情報を拡散したと思われます。

漫画家が15億円を寄付するという件は、2ちゃんねる内でジョークとして語られていたことを、大阪府の男性がツイッターでつぶやいてしまったことに端を発します。その後、その漫画家が否定して、では誰が情報を広めたのか?ということになり、この男性が大元ということが分かり彼はネット上で随分非難されたようです。しかながら、もともとジョークだったことであり、この人も全然悪い人じゃないというか、他の書き込みを見ても自分の好きなことを仲間内でつぐやきあっているような人で、この件で非難されたことに対しても恐縮して平謝りでした。

デマを流す悪い人を見つけられると思っていたのに、私は困ってしまいました。
それと同時に「恐ろしい」と思いました。なぜなら、悪意がなくても、単に不注意や善意だけでもデマが作られるからです。

もっとも、大元に悪意があるデマも多いでしょう。

私からすると、地震兵器のデマは、そのうちの一つだと思います。
冷静に考えれば、マグニチュード9という破壊力は現存する最大の核兵器の数十倍の大きさですし、プレートの内部にどうやって埋め込むのかも謎です。そもそも、核兵器の実験をやると地震波が計測されるので行われたことが分かるのですが、通常の地震とは波形が異なるはずです。もし兵器であるなら世界中の地震計の情報から通常とは違うということが分かっているはずです。
・・・と考えられれば良いのですが、災害で焦っているとそうなれない人もよくいます。
また「地震兵器がないとは証明できない」という論法も、デマの蔓延る原因かと思います。
もしかするとあるかも知れない・・・、と思わせるのがこういう陰謀論(と言い切ってしまいます)を取る人に多く見られる論法です。
このようなものにはデマというレッテルを貼っても良いのかも知れないですが、それでも「単に提案しているだけです」と逃げることもできますから、困ったものです。

いずれにしても、情報を伝達するという行為は難しいのだな、とあらためて感じました。

災害時などは、情報が錯綜します。未確認の情報が沢山出てきて、情報の受け手はその雑多な情報の中で取捨選択しなければなりません。
今回の震災で思ったのは、選別された情報、承認された情報の有り難さです。
ネットは確かに有益で、誰でも情報の出し手になれて、受け手にもなれる。これは素晴らしいです。
反面、今回ほど既存メディアの有り難さ、特にNHKやTBSニュースバード、各新聞のサイトの存在感を感じたことはありませんでした。
私は普段NHKは見ません。地デジも、アナログも地上波も見る機器がないので見ることが出来ないです。よって、受信料を支払ってもいません(その義務がありません)
とはいえテレビがないわけではなく、チューナーが付いていない普通のパソコン用ディスプレイがあります。これのHTMI端子が光テレビのチューナーに繋がっています(ですからTBSニュースバードや英BBCを見ることは出来ます)
震災後、NHKはUstreamで見ることが出来ましたので、随分見させていただきました。やはりNHKの報道の安定感を強く感じました。とにかく安心。
もちろん、情報はNHKというフィルターを通ってきていますから、全ての情報が見られる訳ではないかも知れませんし、バイアスが掛かっているかもしれません。そうはいっても、ネット上のデマかも知れない情報を浴びて、必要であれば一次ソースを探しに行かなければならないようなことをやっていると疲れてしまうことに比べて利益もずいぶん大きいです。情報の裏を取りたいときも、NHKで放送された情報なら確かだ・・・と考えられます。
これは災害時だから特にこのように思うのでしょう。

そして今回、「情報を承認する」ということの大切さを強く感じました。

NHKは放送事業者ですが、ネットにも記事を載せるようになっています。今回は一時的にではありますが、ustreamでネットに直接放送を行いました。なにももはや放送にこだわることはない思います。必要とされているのは、情報を検証して、裏を取って承認してくれる機関です。嘘の情報が一旦流れてしまうのはしょうがないですし、そこを制限するべきではないです。しかし、世の中のコンセンサスになるべき情報にはしっかりとした裏付けがないと困ります。ネット社会が始まってから、もう15年程でしょうか。やはりまだ混沌としています。便利にはなりました。情報の多いことは基本的には良いことです。しかし、情報の混乱を増やしてしまっていることは今回流布したデマを見ても確かなところでしょう。別にNHKはじゃなくても良いのでしょうが、NHKの立ち位置の公共放送という位置づけをそのまま未来に持っていくのなら、公共放送→公共情報 になると私は思います。

いずれにしても、情報の交通整理が行えて、間違った情報、怪しい情報がそうであるときちんと確認できる、そういう社会になって欲しいと思います。

2011/04/06  

Category: 雑記
今年も桜が咲きました。




 



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