ミネラル・キング(開発の脅威にさらされたカリフォルニアの原生自然地域)をめぐる裁判におけるウィリアム・O・ダグラス裁判官の少数意見と比べてみよう。

たとえば川は、これがはぐくむすべての生命の生きた象徴といえる。すべての生命とは、魚、水生昆虫、カワガラス、カワウソ・フィッシャー(テンの一種)、シカ、エルク(大型の鹿)、クマなどすべての生きものをさす。川で生計を立て、あるいは川の景色や音の響きや川の生きものたちに触れて喜びを感じる人間も含まれる。原告としての川は、その川が一部となっている生態系に属する生命の利害を代表して陳述を行うことになる。この水系に対し何らかの意味ある関係を持つ人々は--釣り人であっても、カヌーを楽しむ人であっても、動物学の研究者であっても、また森林伐採に従事している人であっても--その川が代表しており破壊の脅威にさらされている価値について、代弁できるに違いない。

ディープエコロジー生き方から考える環境の思想 126P


普通法律が適用されるのは「人間」・・・に対してだ。人間が外国に行くときはパスポートが必要だが、パスポートを持って飛べない渡り鳥には入国審査がない。

上のダグラス裁判官の場合、「川が代表しており、代弁できるに違いない」と述べている。これは開発の際に、「川」が原告になりうるということを示している。その理由は、川が人間も含め、様々な生き物と繋がっていて、その関係性において、自然の営みに対して人間が本質的な価値を認めることが出来るからだ。

京都議定書の二酸化炭素排出の削減ノルマを日本が満たせそうにないらしいが、地球温暖化の場合でも、複雑な自然のシステムの中にいる人間が、人間本位の活動を行いすぎていて、その結果後戻りできない状況になってしまうかも・・・というところまで来てしまっている。

温暖化が進んで困るのは人間だけではなく、全ての自然界のシステムが変わってしまう。たとえば、南極の棚氷のしたからやって来る、冷たい海水の流れがなくなる・・・など。それにともない、気候も大きく変わり、全ての生物が影響を受ける。

普通、人間以外の生物や自然環境は裁判の原告になりえない。法律は人間を守るためにある・・・それまでといえばそれまでなのだが、環境の変化はまわりまわって人間の生活に影響を及ぼす。だから環境の悪化を阻止する。これはひとつの考え方だ。とはいえ人間中心主義であるともいえる。確かに世界は人間中心にまわっているようにも見え、おいそれとそれを否定するのは勇気がいるのだが、また、人間の存在はとても小さく環境の変化の影響をモロに受ける、とも言える。

ダグラス裁判官の考え方というのは、ディープエコロジーの考え方に近いのだが、「自然も人間も一体」として考えている。自己から他者に対する限りない共感なのだ。「他者」を人間に限定するのも一つの考え方で、人間以外は「物質」として捉えるのが、今までの考え方だった。温暖化の例では、「果たして、経済的な成長を重視しつつ、二酸化炭素を削減できるのか?」という疑問がある。恐らく「温暖化は問題だが、景気が悪化したらどうする」という声が聞こえてきそうだ。

世間では「人間に対する共感」も減少しているような気がするが、ここは敢えて目標を高く持ちたい。人間以外へ、生物や自然環境へと「共感」の範囲を広げたい。自然や生物との一体感を持つ・・・これはきっと人間にとっても気持ちの良いことだと思う。