今は亡き祖父。亡くなる前、幾らかの期間ですが、ノートに日記を付けていました。
段々と体が弱っていき、ついには日記を記す気力が失われたようで、日を追うごとに字が読みづらくなり、ついには絶筆したノートが残されました。祖父は沢山の本を持っていましたが、その中に、岩波書店から出版されていた永井荷風の断腸亭日乗がありました。形見分け・・・という訳でもないのですが、なんか欲しい本があったら持って行って良いよ・・・ということで私はこの本をもらいました。断腸亭日乗は荷風が死の間際まで書いていた日記です。もしかすると祖父が日記を付けていたのは、荷風の影響もあったのかもしれません。

荷風が生きた時代は、戦争の時代でした。世の中は「進め一億火の玉だ」になっており、戦争に勝つことが国家の最優先事項であり、また国民もそのように思っていました。しかしながら、荷風はそのような世の中の本流からは一線を引いた生き方をしていました。それは例えば小説「墨東綺譚」に描かれているような色恋の世界であり、断腸亭日乗にあるような、世の中を斜め上から眺めたような視点を持った生き方です。そのような生き方はもちろん当時はやり難いものであったでしょうし、危険でもありました。しかし、荷風はそのような全体主義の世の中に負けず、自分の生き方を貫きます。貫いたと言っても、反政府運動をやるような、真正面から戦うという姿勢ではなく、ある種達観して自分は自分のやることをやりきることを貫いたのでしょう。戦ったのであありませんが、自分の描いている世界という理想の炬火を高々と掲げて生きたということにおいては、それはある種の戦いと言っても良いのではないか・・・と思えます。

私は荷風を詳しく語ることが出来るほどの十分な知識はありません。彼の風流であり諧謔を持ち、ある種の古風な面を持つその世界に興味がありますし、あの時代においてそれをやり遂げた荷風にある種の憧れを持ちます。

今日は御徒町で買いたいものがありまして、走って行ってきました。電車でいこうかと思ったのですが、走っていければ楽しいですし、一石二鳥です。移動手段として地下鉄や電車を使うと、駅以外の場所では途中下車することができませんので、それは駅という「点」と接することになります。走るのが面白いのは、走るところ・・・つまり道という線を経て、しかもゆっくり通り過ぎますので、途中にある面白い物と「線」で接することができることです。

春日の伝通院前あたりでしたが、永井荷風の生育地に突然出くわしビックリしました。まぁ、生育地と言っても生家がそのまま残っているわけでもなく、この付近で生まれてしばらく育ったということなのですが・・・。



関東大震災で壊滅的な被害を受けた東京の復興について意見を求められた荷風は


「都市外観の上よりしても東京市には従来の溝渠の外、新に幾條の堀割を開き舟行の便宜あるように致度候。急用の人は電車自動車、にて陸上を行くべく、閑人は舟にて水を行くよう致し候は、おのづから雑たふを避くべき一助とも相成べく候。京都はうつくしき丘陵の都会なれば、此れに対して東京は快活なる運河の美観を有する新都に致したく存候。」


このように述べたといいます。
江戸時代、東京(江戸)は水運の街だったようです。利便性と経済的利益によって電気自動車が幅を効かせるようになってしまったけれど、暇な人は急がなくてもよいので、新たに水路を作って船で移動できるような、そんな美しい街にしてほしい・・・ということです。

その後どうなったでしょうか。日本橋の上にも首都高が通っている現状を見れば、荷風の思い描いた東京市とは反対の方向に来ていることは言うまでもないと思います。

荷風の生まれ育ったこの場所はどんなだったのだろうか?と思いを馳せます。今よりのんびりしていたのは間違いないでしょう。少し行くと神田川がありますので、川を行く船を見て育ったのかもしれません。

よくも悪くも、その時代とはだいぶ違う世界になってしまいました。今の東日本大震災を荷風が見たら、荷風はどんなことを言ってくれるのだろうか・・・、そんなこと考えながら帰ってきました。