Archives

You are currently viewing archive for July 2012

2012/07/13  objection 異論

Category: 社会
大津の中学2年生がいじめにあって自ら命を絶った事件。

事件後、
「見て見ぬふりをしてしまった・・・」と、クラスメートが反省している。
というニュースが流れた。

確かに助けてあげられたら良かったと思う。いじめられている生徒の側にいてあげる他の生徒が一人でもいたら良かったと思う。

でも、いじめられている生徒を助けるというのは、簡単に「反省」という言葉で済ませられるほど簡単なことではないのではないか?という気もする。

いじめになっているということは、それは「多人数vs1人」という構造になっているはず。もし誰かがいじめられっ子を助けようとした時、その対立構造そのものを解消することができれば万々歳だけど、もし失敗するとどうなってしまうだろう?恐らく「多人数vs2人」という構造になってしまうだろう。これは助けようとした子も一緒に苛められてしまう可能性があるということ。子供というのは容赦しないところもあるので、特にそういうリスクを取ることは簡単なことではないのでは・・・?という気がする。

更に思うことは、これは子どもだけの問題ではなく、むしろおとなの社会こそがそうなっているのでは?ということ。

多数の人間の間で意見が一致している場合、同調圧力がかかる。流れが出来てしまう。一人だけ逆らいづらい。皆、それに従わなくてはならない、という雰囲気ができてしまう。「おかしい」と思う人がいたとしても、「私はそうは思わないんですよねー」と声をあげるのは簡単なことではない。

(おい、空気読めよ・・・)

と無言の圧力が流れるはずだ。

もちろん、言っていることが非論理的で筋の通っていないことであるならば、それは「自分勝手」になってしまうだろう。
ただ、この同調圧力といやつは、筋が通っている異論さえも封じ込めるものだと思う。
大津のいじめられっ子を助けられなかったように。

子供に「見て見ぬふりとは何事か。反省しなさい。」と言うのは簡単だ。
でも、その根底にあるものは大人の社会にこそ存在する「異論を言いにくい」「長いものには巻かれろ」の文化ではなかろうか?と思う。

さて・・・

どうしたって、好かれる人間と嫌われる人間がいる。子供も同じ。
これは人と人に差異がある以上自然なことかと思う。
人間にはそもそも好き嫌いが備わっているので、これは致し方のないことだと考えたい。

いじめがあったとき、子供はどうしても先生や親などの大人に相談するのを躊躇する傾向があるようだ。
これは子供の頃を思い返してみるとなんとなく分かる。「先生にちくったなー」ってやつで、どうも子供は子供どうしで物事を解決したがり、大人を巻き込むことを潔しとしないようだ。(考えてみるとこれはなぜだろうね?少なくとも利害でそうしているわけではないと思う。)

子供のことは子供同士で解決するのが一番理想かと思う。

テレビでコメンテータがこのいじめの問題で意見を求められて
「論語を勉強したら良い」とか
「先生の体罰を認めるのも・・・」
などと、私からするとほとんど的外れの解決案を出していて、とても暗い気分になった。
(聞きながら本当にしばらくうつむいてしまった)

そんなことより、
「いじめを止めに入った生徒を、大人は全力で褒めてあげて、そして守ってあげる」というのはいかがだろうか?
特効薬ではないけれど、これは損はないと思う。
いじめを止めに入るというのは、上に書いたようにとてもリスキーだ。止めに入った子供も下手をするとマイノリティーになって、一緒に虐められ可能性がある(というか基本的にその可能性の方が高いだろう)勇気を持ってその行為を買って出た子供(偉いなぁ・・・!)その子こそは大人が全力で守って上げなければならない存在だと思う。

いじめが止まった後も、
「止めてもらって良かったけど、相変わらず独り・・・」であるのと「1人助けてくれた人がいる。まだあまり親しくないけど話はできる!友達になれるかも!」っていうのは、スゴク大きな違いなんじゃないだろうか?

先生であっても所詮大人は子供の世界の「行司役(レフェリー)」であってプレイヤーではないと思う。子供の問題は子供に基本的に任せつつも、悪い方向に行かないように、サッカーのレフェリーのように選手をなだめすかして、時には叱りつけハンドリングする必要がある。先生が体罰をふるっていたら、それは子供の同じ位置(レベル)まで(本質的には)落ちてきてしまうことであり、子供は鋭いので「先生は暴力はダメって言うけど、自分はやっているじゃないか!」って思うだろう。子供って大人の持っている矛盾にとっても敏感ですよ(←体験談)。

とはいえ、既に常軌を逸した集団での暴行がある場合などは、それは既にある種の集団でのヒステリー状態にあるわけで、子供達のしきたりよりも法律の方が優先されるということも分かってもらわないと。「君たちのやった行為はこのような法律に触れている。ということはこれから告発され起訴され裁判にかけられ有罪になったあかつきにはこういう刑罰が待っているんだよ。おめでとう。」ということを普段行ったことのない暗い雰囲気の部屋で無表情の怖い大人達に取り囲まれて(冷徹に)伝達される必要がある・・・とは思う。

2012/07/11  光のスペクトル

Category: 雑記
近所に湖月庵という和菓子屋さんがあります。
何代かに渡ってお菓子を作り続けているお店で、とても上品な味で私は好きなのです。
ご主人も奥さんも、人当たりがいい感じでとても真面目そうな方々です。

そんなに頻繁に買いに行くわけではないのですが、時たま立ち寄りたくなります。
昨日は郵便局に用事があった帰りに、ふと思い寄ってみました。

店先には誰もいませんでした。足元を見てみると一箇所こんな模様が。



窓から光が差し込んで、ガラスの盾を通過して足元に七色の光が映っているのでした。
静かな店内に一箇所光のスペクトルが。

不思議な光景です。
なんだか得をした気分。

2012/07/10  良い警告

先日のトレランレース(ウルトラトレイル マウントフジのSTY)では、なんとか最後まで行きたいと思い続け、自分で出来ることは全てやって、「なんとか最後まで!最後まで・・・」と強く強く思って歩き続けていましたが、それでもリタイアせざるを得なくなってしまいました。

トレランのレースは人生を凝縮したようなところがある(*1)と私は思っています。例えば、始まりがあって終わりがあり皆で最後まで行くことを目指します。調子がよい時があれば、そうでない時もあり、しばしば予想外のことが起こります。感情の波も激しく、ポジティブな気持ちになれることもあれば、そうでない時もあります。そういったことを全てひっくるめて、なんとか自分の脚で歩き続けるのです。

「これだけ強く望んでいても、上手くいかないときは上手くいかないものなのだなぁ・・・」

と、短い24時間にも満たない時間でしたが、そこに「人生を垣間見た」とでもいいましょうか。「こんな風に終わってしまうことになるんだよ。いいのかい?」と、良い警告を受けた気分です。

昨年参加してやはり最後まで行けなかった、おんたけウルトラトレイル100km。今年も申し込んでおりましたが、脚の状態が充分に回復していないので、残念ながら今年は断念です。また徐々に走って脚を作って、まさかどハーフマラソンを走りフルマラソンを走り、基礎的な走力を上げてから来年挑戦したいと思っています。




(*1)
ちょっと大袈裟と思うかもしれませんが、私の場合そう思います。ただ、速いトップランナーの選手達が短い距離のレースを走ると、それこそ2,3時間でゴールして「あっという間」なので、そういう場合は「人生」っていうのは明らかにオーバーでしょう。
 



サイトトップへ戻る

©2017Kitano Yoshitomo All Rights Reserved